2019年06月27日

カンボジアの基礎知識-政治史

政治史(1991年以降)

 

1991年にパリ和平協定が結ばれて内戦が終わりました。そして、1993年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視のもとで選挙が行われました。それ以来、1998年、2003年、2008年、2013年、そして2018年と5年毎に総選挙が行われています。その選挙結果に紆余曲折はありながらも1993年以降、人民党のフン・セン氏がずっと首相を務めていて、その在任期間は35年を超えているという世界的な長期政権になっています。

 

カンボジアでは国王は象徴としての存在であって実質的な権力はありません。シハヌーク前国王はその経歴とカリスマ性から、政治的な対立が生じた際にしばしば仲介役をすることはありましたが、2004年に即位したノロドム・シハモニー国王は政治に関わらず、できるだけ中立的な立場を保とうとしています。2013〜14年に政治対立が生じた際には、野党が国王に国会の延期を求めたものの、国王がそれに応じなかったことから、与党寄りかと思われた面もありましたものの、一方で、与野党協議を国王が促して国王が中立であるという面を見せています。

 

カンボジアで長年重要な役割を担ってきた政党は3つあります。人民党、救国党、そしてフンシンペック党です。

①人民党

 

人民党は1980年代にベトナムの支援を受けてカンボジアを統治していた人民革命党がルーツになります。当初は社会主義でありましたが、パリ和平協定が調停される直前に党として民主主義と複数政党制を承認して、マルクス・レーニン主義を放棄。党の名前をカンボジア人民党に変更しました。1993年の選挙では第2党となりましたが、人民革命党時代に首相を務めてきたフン・セン氏が第2首相となり、1998年の選挙以降は第1党としてフン・セン首相を中心に政権を担ってきました。

 

人民党はそもそもポル・ポト政権による虐殺から国を救うために立ち上がった党だと位置づけており、パリ和平協定後の安定と平和による復興と発展をもたらしたフン・セン首相の功績を強調し、しばしば野党の台頭に対して「虐殺の時代に戻りかねない」と批判しています。人民党は長く政権を担っているとはいえ、もちろん国家と同一ではありませんが、実際には多くの公務員が党員であるために人民党は国に対して様々な影響を及ぼしてきました。国会の各委員会の委員長や地方の主要ポストをほぼすべて人民党が占めることで強固な権力基盤を築いてきました。

 

ヘン・サムリン名誉党首、チア・シム党首、フン・セン副党首(首相)の3人がトップに据えられてきましたが、2015年にチア・シム党首が死去したあとは、フン・セン氏が党首になっています。

 

2013年選挙では議席数を大きく減らしましたが、2018年の選挙では救国党を解党させてから選挙に挑んだことで圧勝。125議席全議席を獲得しています。

 

 

②救国党

 

カンボジア救国党は2012年にサム・ランシー党(サム・ランシー党首)と人権党(クム・ソカー党首)が合併し、真の愛国者と民主主義により、国益を守り国を救う、として設立された政党で、2013年の選挙では125議席中の55議席を獲得して躍進しました。

 

サム・ランシー氏もクム・ソカー氏もはじめはフンシンペック党に所属していました。サム・ランシー氏は1993年の連立政権では経済・財務大臣という重要なポストについていましたが、党内の対立によって1995年に党から除名されてクメール国民党を結成。1998年にサム・ランシー党へと名前を変えました。サム・ランシー党は都市部で人気が高く、また、欧米在住のカンボジア人にも人気がありました。クム・ソカー氏はフンシンペック党で上院議員を務め、NGOで人権活動に励んだ後の2007年に人権党を設立しました。

 

救国党は開発に伴う立ち退き問題の解決や、最低賃金の上昇を訴え、政府に近い人々に富が集中する状況に反対し、弱者救済的な立場をとるとともに、人民党が歴史的にベトナムに近いことから、ベトナムとの国境問題や、ベトナムからの不法移民問題は大きな政治対立の原因となりました。

 

2010年にはサム・ランシー党首がベトナム国境の杭がカンボジア側に不利な形で設置されていると主張してその杭を引き抜いたために器物損壊などの容疑で国を追われる事となり、2013年の選挙直前まで海外亡命状態に。2017年にはクム・ソカー党首が国家反逆罪容疑で逮捕されて、指導者118名に対して5年間の政治活動が禁止されたことで約半数の議席を持っていた救国党は解党することに。これにより2018年の選挙では人民党が全議席を獲得することになりました。

③フンシンペック党

 

フンシンペック党は1981年にノロドム・シハヌーク殿下(当時)によって設立された民族統一前線を基盤として、1992年にノロドム・ラナリット殿下を党首として設立された党になります。シハヌーク国王の党、というイメージを活用して国民の支持を集め、王党派と位置づけられました。

 

1993年には第一党となり党勢を誇りました。それ以降の選挙では第一党となることが出来なかったものの、2000年代半ばまでは人民党の連立政権のパートナーとして常に一定の存在感を示してきました。ただ、その人民党とのパートナー関係そのものが、フンシンペック党の支持者の信頼を失うこととなり、反人民党を明確に打ち出す他の野党に支持層が奪われていきました。それに加えて、ラナリット党首を支持する派と、それ以外の勢力による党内対立も激しく、そのことがさらに支持者離れを引き起こしました。加えて、ラナリット氏が離党、復党のうえに、引退宣言などの混乱を引き起こしたことで2013年の選挙ではついに全議席を失い、また、2018年選挙でも議席を獲得することができませんでした。存在感は低くなっていますが、救国党が解党されたこともあり反人民党勢力の受け皿の一つとして一定の役割を担う可能性は残っています。なお、2015年からは再度ラナリット氏が党首となっています。

 

 

選挙史(1991年以降)

 

①1993年、1998年、2003年選挙

 

1993年の選挙ではフンセンペック党が第一党となり、同党からノロドム・ラナリット殿下が第1首相に、人民党が第2党となり、同党からフン・セン氏が第2首相に就任しました。両党の勢力争いは1998年の選挙に向けて激しくなっていきました。1997年には1993年の選挙には参加しなかったポル・ポト派の取り込みに成功しかけていたラナリット第1首相が、フン・セン第2首相らによって国外に追放されるというクーデターが起きました。武力衝突も起きましたが、局地的に抑えられ、フンシンペック党のウオン・フオト氏が第一首相につくことで事態は短期間で収束しました。また、ポル・ポト派との関係をめぐる対立はポル・ポトが病死したことでこれもまた収束しました。

 

1998年の選挙では人民党が第一党になりましたが、当時の憲法では議席の3分の2以上の信任がないと政府を成立させることができなかったため、第2党となったフンシンペック党、第3党となったサム・ランシー党、どちらと連立を組むかということで政治的な対立が続きました。3党での連立も検討されましたが、最終的にはフンシンペック党のみが連立政権に参加することになり、フン・セン氏を唯一の首相とする連立政権が成立し、各勢力のバランスに配慮されたポストの配分が行われました。無事に政府が成立したことで、カンボジアの安定が国際的に評価され、1999年にはASEANへの加盟も実現しています。

 

2003年の選挙でも人民党が第一党になりましたが、議席数が3分の2に達しなかったことから、再び連立政権をめぐって政治的対立が生じました。このときには、第2党となったフンシンペック党、第3党となったサム・ランシー党の両党からフン・セン氏をのぞいた人民党との3党での連立政権が提案されたために対立が長期化。最終的には1998年の時と同様の連立政権とはなりましたが、その政府成立までに半年の時間がかかりました。

 

この連立を組む過程において連立政権に入ったフンシンペック党はその支持をうしなっていき、連立政権に入らなかったサム・ランシー党は反人民党勢力としての指示を集めていきました。

 

②2008年選挙

 

2006年、人民党と対立していたサム・ランシー党が協力したことで憲法が改正され、これまでの3分の2以上の議席数ではなく、過半数でもって政府が成立することとなりました。このことで人民党は政権を維持するためにフンシンペック党と連立を組む必要がなくなり、大量のフンシンペック党の大臣が解任されることになりました。加えて、このことに反発したラナリット殿下が国会議長を辞任。フンシンペック党と人民党の関係は悪化しました。

 

2008年選挙のまでの数年間、年率10%以上の経済成長を続けたことが人民党への支持を強めました。また、プレアヴィヒア寺院が世界遺産に登録された際にタイとの寺院付近の領有をめぐって対立がおき、このことで国を守ることができるのは人民党、というイメージがついたことで、2008年選挙では人民党が圧勝し、4分の3近くの議席数を獲得するという結果になりました。

 

サム・ランシー党は都市部においてはある程度の支持を得ましたが、2007年に設立された人権党と表を分け合う事となってしまい、多くの議席を人民党に取られることになりました。

 

この選挙において、人民党は単独で政府を成立させることが可能でしたが、フンシンペック党のニック・ブンチャイ氏を閣内に招き入れることで、さらなる政治的安定を図っています。

 

③2013年、2018年選挙

 

2009年のリーマンショックで経済が一時的に不調にはなったものの、2011年以降は7%以上の安定した経済成長を達成。貧困率も2007年に47.8%だったのが、2012年には18.9%に大幅に改善されました。人民党にとってもこの数字的な成果は大きかったですが、一方で開発における住民の立ち退き問題や、工場労働者などからの賃金改善要求問題など、経済成長による恩恵を十分に受けることができない層から不満が噴出しました。

 

2012年にサム・ランシー党と人権党の結党によりできた救国党は選挙を前に、労働者、公務員の最低賃金の上昇や、65才以上の全国民に対する年金の支給を公約に掲げました。それまでの選挙ではそういった具体的な公約が掲げられることもなかったことや、加えて、その公約がスマートフォンなどの普及により広く伝えられた結果、それに期待した国民から強い期待が寄せられ、選挙前の29議席から選挙後には55議席に。救国党は約半数の議席を獲得するという大躍進となりました。

 

しかし、救国党は、選挙に不正がなければ、救国党が人民党をさらに上回る議席を獲得していたと主張して国会への出席をボイコット。そのボイコットは2014年になっても続きましたが、ポストの配分やテレビ局開設許可などの合意と引換にボイコットをやめることとなりました。与野党合意により、対話による政治が実現するかと思われましたが、2015年7月にはNGO活動への規制を強化する法案が人民党により強行採決されたり、ベトナム国境確定問題をめぐる議論が過熱。救国党議員への暴力事件なども発生し、両者の対立は深まっていきました。

 

2017年には、サム・ランシー氏の党首辞任に伴い党首についたクム・ソカー氏が国家反逆容疑により逮捕。同年11月、最高裁は救国党の解散を命じました。2018年の選挙は選挙前に56の議席をもっていた救国党の不在のもとで選挙が行われ、結果として人民党が125議席全議席を獲得するというあまりにも圧倒的な結果になりました。強権が進んだことによる閉塞感や対抗馬不在で選挙が行われたことから、解散を命じられた救国党のメンバーからだけでなく、欧米からも異議がでてきています。

 

フン・セン政権は2030年までに高中所得国となることを目指し、各セクターの目標を設定しています。7%の経済成長を確保し続けること、若年層のための雇用を確保すること、貧困率を毎年1%ずつ下げていくこと、中央・地方政府のあり方を改善してよりよい公共サービスを提供することなどを目標としています。労働者、公務員の賃金の上昇も年々進めており、従来通り投資環境を整えることで外資を積極的に受け入れるという姿勢を再確認するとともに、将来的に外資と有機的な連携関係を持つ中小企業やそれを支える人材の育成に注力。付加価値のより高い産業の開発を目指し、農業分野では2010年以来推進しているコメの輸出をさらに促進していこうとしています。

                       

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