カンボジアの人口構成 図表-03
2019年06月06日

カンボジア基礎知識-地理、人口、言語など

カンボジアといえばといえば、みなさんは何を思い浮かべますか?ポルポトなどの暗い歴史だったり、世界遺産で旅行先として人気のあるアンコールワットだったり、そういうイメージかもしれませんが、近年は経済成長も著しく、日本企業の進出先としても注目を集めています。

数年前までは10軒程度だった日本食レストランも今や約200店舗かそれ以上。イオンの大型ショッピングモールも出来て、そして滞在する日本人家族向けに日本人学校も開設されています。

 

カンボジアはインドシナ半島の中央にあり、東はベトナム、西はタイ、北はラオスと接しています。国土面積は日本の面積の約半分ほど。中央に平野部があり、それを山脈が囲んでいるような形になっています。東南アジア最大の川であるメコン川がカンボジアの中央を北から南に流れていて、カンボジア中央にある東南アジア最大の湖トンレサップ湖と繋がっています。

カンボジアの季節は大きく雨期と乾期に分かれます。雨期といっても一日中ずっと降り続くようなことは少なく、夕方に数時間激しいスコールが降る感じです。一方で乾期になるとほとんど雨が降りません。雨期は5月から10月。乾期は11月から3月です。4月頃が一番暑く、日中の気温は35度以上。40度を超えることも多いです。

カンボジア平均気温と降雨量 図表-01

トンレサップ湖は雨期と乾期でその大きさが随分と変わることで有名です。雨期には最大16000㎢まで大きくなります。琵琶湖が670㎢ですから琵琶湖の約25倍の大きさです。深さも8メートルになります。それがなんと乾期には約3000㎢、約5分の1まで面積が狭くなり、そしてまた水深も1メートルほどに縮まります。この湖は淡水魚の宝庫としても有名で、体重が100キロを超えるメコンオオナマズをはじめ、200種を超える淡水魚が生息しています。

 

カンボジアの人口はおおよそ1500万人。高齢層が少なく若年層が多く、それはまさに日本と真逆です。30才以下の人口が50%以上。生産年齢人口も65%を超えています。ちなみに国民の90%は仏教徒。キリスト教徒やイスラム教徒も割合は少ないですが存在します。

カンボジアの人口構成 図表-03

カンボジアの公用語は南インドから伝わった言葉を独自に発展させたクメール語。日常用語には中国語や、タイ語、そして統治時代のフランスの言葉が混じっています。カンボジアにはクメール語を話すことはできても、読み書きが出来ない人が多く、このことは大きな社会問題になっています(2013年の15才以上の識字率、男性約86%、女性74%)。義務教育は日本と同じく、中学校までですが、経済的な事情もあって、卒業できる生徒が半数にも達しないからです。

カンボジアの歴史

 

①アンコール王朝

 

1〜7世紀前半まではクメール人が建国した東南アジア最古の王国「扶南」が支配していて、インドや中国と貿易していました。しかし、7世紀に扶南の属州の一つが「真臘(しんろう)」という国を作り、真臘がカンボジアを支配するようになりました。8世紀の後半には、インドネシア・ジャワ島にあった王朝がカンボジアを侵略。カンボジアの王家の身でありながら、そのジャワの王朝にとらわれの身となっていたジャヤパルマン2世が790年にカンボジアに戻った末に国王に即位。802年にアンコール王朝を興しました。その後、ヤショーバルマン一世がアンコールの地を王都と定め、城と寺院の建設を進めました。12世紀にはスールヤバルマン2世がベトナムなどの近隣国を侵略して領土を拡大。アンコールワットや各種の仏教寺院が建てられました。ジャヤバルマン7世の時代にはさらに勢力が拡大し、インドシナ半島の大半を支配するまでに。この時代にアンコールトムや数多くの仏教寺院が建てられました。しかし、その急激な拡大によって国は疲弊するようになりました。15世紀前半になると、タイからの侵略を受けて、王都アンコールは陥落。その後のカンボジアは衰退の一途をたどり、18世紀後半にはタイとベトナムの攻撃を受けて、ベトナムの支配下に入るようになりました。その後1845年にタイとベトナムの協議によって、両国の属国という形でカンボジアの主権が復活。1847年にアン・ドゥオン王が即位しました。

 

②フランス植民地時代

 

カンボジアはタイ、ベトナムからの独立を目指し、フランスに保護を求めました。この事が当時世界各地に植民地支配を進めていたフランスのカンボジアへの進出を簡単にさせてしまいました。1863年、鉱石と木材のフランスへの輸出と引き換えにフランスはカンボジアを保護することを約束。理事官が派遣され、カンボジアに駐在するようになりました。1865年にはカンボジアはフランスの保護国になり、そして1867年にはフランスがタイが条約を結ぶ中で、北部のバッタンバン、シェムリアップ、シソボンについて、タイの領土とされてしまいました。フランスは1887年に仏領インドシナを形成。1907年、再度フランスとタイが条約を結ぶ中でバッタンバン、シェムリアップ、シソボンがカンボジア領に復帰するものの、そういった過程の中で、カンボジアはタイとベトナムからは影響を受けなったものの長くフランスの植民地支配をうけることになりました。

 

③独立と内戦

 

1940年、日本が仏領インドシナに進駐。カンボジアの領土を巡ってタイとフランスの間で戦争が勃発しましが、日本が仲介して、パッタンバンとシェムリアップがまたもタイの領土になりました。その後、日本はカンボジアをフランスから独立させる政策を取り、1945年3月、ノロドム・シハヌーク国王に独立を宣言させました。

 

ですが、残念なことに日本が連合国に降伏するとその独立は取り消されてしまいます。またもやフランスによる支配が再開することになりました。シハヌーク国王は各地に出向き、そして国際世論に訴え、運動を続けた結果、1953年についに完全独立を成功させました。

1960年代のプノンペンはその美しい街並みと治安の良さから、東洋のパリとして、とても魅力ある都市として評価されるようになりました。国内の開発も急ピッチで進みましたが、そこでベトナム戦争が勃発。1965年にシハヌーク国王は北ベトナムを応援する立場から、北ベトナムへ爆撃を行うアメリカと国交断絶を宣言。1968年にはアメリカによるカンボジアへの空爆がはじまり、国内情勢は非常に不安定な状態になってしまいました。1970年、シハヌーク国王の外遊中に親米派のロン・ノル将軍がクーデターを実施してクメール共和国を樹立。ロン・ノル将軍はアメリカ軍に対して、カンボジア国内に展開するベトナム軍への空爆を許可したため、これにより各地の農村は空爆の被害を受けてしまい、農民からの共和国への不満が急激に高まりました。中国へ亡命していたシハヌーク殿下は1970年にカンプチア民族統一戦線を結成し、ポルポト率いるクメール・ルージュと共闘することを宣言しました。政府軍とクメール・ルージュ軍が内戦を進める中で1973年アメリカ軍がベトナムから撤退すると、ロン・ノル将軍は後ろ盾を失ってしまい、1975年アメリカに亡命しました。クメール・ルージュはプノンペンに入城し、ポルポトは民主カンプチアを樹立しました。

 

ポルポトは原理社会主義を掲げて、都市部の人間を強制的に農村へ移住させ農業に従事させました。また、知識層にはブルジョアとのレッテルを貼って、徹底的に弾圧。多くの非人道的な行為が行わわれた結果、その過程で170万人の死者が出たと言われています。ポルポトはベトナムに対して激しく敵対しました。1977年にポルポトはベトナムのタイニン省はカンボジアの領土だとして、ベトナムへ進軍。1978年にはポルポトに従っていたベトナム系カンボジア人将兵を大量に処刑。ベトナムに大量の避難民が流入しましたが、ベトナム軍はそれらの難民を従えてカンボジアに反攻。ベトナム軍はクメール・ルージュをタイ国境近くまで追い払い、プノンペン占領に成功しました。1981年にベトナム軍はヘム・サムリンを擁立してカンボジア人民共和国を建国。それに反抗する3派(シハヌーク派、ソン・サン派、クメール・ルージュ)は三派連合を結成し、政府軍とその三派連合との間で内戦が続くことになりました。ベトナム軍がカンボジアに駐屯を続けて、それがカンボジアの内戦を助長したために国際的な非難が続出。ベトナム軍は徐々に撤退を進めて、1989年にはベトナム軍はカンボジアから完全に撤退しました。

 

④パリ和平協定

 

長年に渡る内戦により多くのカンボジア人が難民として祖国を追われました。そのような情勢をみた国際社会はカンボジアの和平に向けて動きました。1989年、そのための国際会議がパリで開かれ、翌年には東京で会議が行われた結果、ヘン・サムリン政権と三派連合政府が対等に参加する議会を設置することで合意されました。1991年10月23日、パリにおいて難民の帰還、武装解除、議会選挙の実施、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の設置などが盛り込まれた「パリ和平協定」が採択されて、参加した19カ国が調印。これにより長く続いた内戦が終結しました。

 

1992年、明石康・事務総長特別代表が率いるUNTACが平和維持活動(PKO)を開始。日本もPKO協力法を制定してPKOに参加しました。1993年に選挙が実施されて政権が発足し、憲法が公布される中で王制が復活。シアヌーク殿下が国王に即位し、立憲民主国である「カンボジア王国」が建国されました。UNTACによる暫定統治は1993年9月に終了。2004年、「独立の父」と呼ばれ、国民に絶大な人気があったシハヌーク国王が退位し(のち2012年に死去)、子息であるノロドム・シハモニー殿下が新国王として即位して今に至っています。

 

カンボジアの地方行政体制 図表-02

                       

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